古代ローマ

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著者、翻訳:Tetsuya Torii
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Temple of Saturn, Roman Forum (by Leo-seta, CC BY)
フォロ・ロマーノのサトゥルヌスの神殿 Leo-seta (CC BY)

伝説によると、紀元前753年4月21日、古代ローマは半神半人の兄弟ロムルスとレムスによって建国された。そして街の統治者をめぐる口論の最中に(もしくは別の伝説によると、街の場所をめぐる口論の中で)ロムルスがレムスを殺害し、その後自身の名にちなんで「ローマ」と名付けたことになっている。ローマの建国記といえばこのストーリーが最もよく知られているが、一方で、これが唯一の物語というわけでもない。

ローマ(Rome)の名前の起源を「ローマ(Roma)」という女性に求める伝説もある。トロイア陥落後、その女性はアエネイスや他の生存者とともに旅をしていた。ティベル川のほとりにたどり着いた時、男たちはさらなる前進を望んだが、ローマと女たちはこれに反対した。ローマは女たちを率いて船を焼き払い、その結果トロイアの生存者は、のちに都市国家ローマとなるこの地に留まらざるを得なくなった。トロイアのアエネイスはこの伝説に登場するほか、有名なウェルギリウスの『アエネイス』の中でもローマの建国者およびロムルス、レムスの祖先として重要な役割を果たし、この英雄の存在が、ローマをトロイアの失われた栄華と強大さに結びつけている。

ローマの名前に関する学説は他にもある。一つは「ルモン(Rumon)」、すなわちティベル川の古名に由来し、川岸の小さな交易拠点に単にその地名を与えたとする説だ。あるいはエトルリア人の集落の名前に由来するという見方もある。

初期のローマ

ローマはもともとティベル川沿いの小さな街に過ぎず、その初期段階においては、交易を通じて徐々に拡大し、勢力を強めていった。ローマには交通に便利な水路があり、商人たちはこの水路を使って商品を運搬した。建国以来、ロムルスからタルクィニウスに至る7人の王が統治し、その間に領土を広げ、力をつけていった。ローマの南方にはギリシア人植民市があり、初期のローマ人が自分たちの文化を築く時は、そこから伝わるギリシアの文化と文明をモデルにした。ギリシア人からは文字の読み書き、宗教、さらに建築の基礎を取り入れている。

北方のエトルリア人は、ローマに交易と都市の贅沢な暮らしをもたらした。エトルリアも交易に適した位置にあり、初期のローマ人はエトルリアに倣って交易の技術を学んだか、もしくは紀元前650〜600年にローマ近郊に侵入したエトルリア人から、直接それを教わった(ただし、エトルリアの影響自体はずっと以前から及んでいた)。エトルリア人の文明がローマの文化・社会の発展に果たした役割の範囲について、今も議論は続いているが、成長の初期段階において重大な影響を及ぼしたことはほぼ間違いないだろう。

このようにローマ人は当初から、異文化の技術や概念を取り入れ、それらを改良する才能を見せていた。王政ローマは紀元前8世紀から6世紀にかけて急速に成長し、交易の拠点から繁栄した都市に変貌を遂げた。紀元前509年に最後の王である傲慢王タルクィニウスが追放されると、王政の打倒を誓ったルキウス・ユニウス・ブルートゥスは統治システムを刷新し、共和政ローマを築いた。

ローマを古代世界の強国に押し上げた要因は「戦争」だ。

戦争と拡大

ローマの初期の繁栄は交易によるものだが、ローマを古代世界の強国に押し上げた要因は「戦争」だ。北アフリカのカルタゴに勝利したことで(ポエニ戦争の名で知られる - 紀元前264〜146年)、ローマの影響力は揺るぎないものとなり、富と名声はますます増大した。ローマとカルタゴは西地中海の交易をめぐるライバルだったが、カルタゴが敗れた今、ローマはこの地のほぼ絶対的な実権を獲得したことになる。ただし海賊たちの襲撃が、依然としてローマによる地中海の完全な支配を妨げていた。

共和政ローマの力と名声が高まる一方で、その首都であるローマは、腐敗、欲望、そして外国人奴隷への過度な依存による影響を受け始めていた。征服地から大量の奴隷が流入すれば、ローマ人は仕事を奪われる。仕事を失ったローマ人の集団は暴漢に成り下がり、裕福な貴族が金を払えば、それが誰であれ、彼らの言いなりになった。都市の裕福なエリート層であるパトリキは、懸命に働く下層階級のプレブスを踏み台にして、ますます富を増やしていった。

Map of 2nd Century Roman Expansion
紀元前2世紀のローマの版図 US Military Academy (Public Domain)

紀元前2世紀になると、護民官のグラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)が土地改革とその他の全面的な政治改革を主導した。これを理由に二人は殺害されたものの、彼らの努力は法改正を促し、蔓延していた元老院の腐敗も減少した(あるいは、少なくとも、元老院はより慎重に汚職をするようになった)。第一回三頭政治が行われる頃には、首都ローマ、共和政ローマはともに全盛期を迎えていた。

共和政

繁栄の一方で、ローマは階級によって分断されていた。支配階級は閥族派(the best men)を名乗り、一方で下層階級や彼らに同調する人々は平民派(the people)と呼ばれた。ただし閥族派・平民派という名称は、単にそれぞれの思想を持つ個人を示す言葉に過ぎず、同名の政党が存在したわけではない。またすべての支配者層が閥族派ではなく、すべての下層民が平民派というわけでもなかった。

一般的にいうと、閥族派は元老院の権威や支配階級の名声、優位性を支持する伝統的な政治・社会的価値観を持っていた。一方で平民派は、これもまた一般論だが、共和政ローマの改革と民主化を支持していた。二つの対立するイデオロギーが、やがて「三頭政治」の形で衝突することはよく知られているが、まさにこの三人の男たちが、結果的に共和政ローマの終焉を招くことになる。

マルクス・リキニウス・クラッススと彼の政治的ライバルであるグナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Pompey the Great)は、もう一人の若い政治家ガイウス・ユリウス・カエサルと手を組み、現代の歴史家が呼ぶところの「第一回三頭政治」を結成した(ただし当時のローマ人も、三頭政治を構成する当の本人たちも、その言葉を使ったことはない)。クラッススとポンペイウスは閥族派の立場を取り、一方でカエサルは平民派だった。

三人は同じように野心家であったが、三人がともに権力を求めた結果、彼らの行動は互いの抑止力になると同時に、それがローマの繁栄にもつながった。クラッススはローマ最大の富豪であり、裕福な市民に「安全保障金」を強要するほど腐敗し切っていた。市民がそれを支払えば、クラッススは何もせず、支払いが見込めない場合は、彼らの家に火をつけ、消火活動の費用を請求した。消火隊が作られた動機はまるで高貴なものではなかったが、クラッススは事実上、ローマで最初の消防局を創設したことになり、これはのちのローマにとって重要な価値を持つようになる。

ポンペイウスとカエサルはいずれも偉大な将軍であり、それぞれの征服活動を通じてローマに富をもたらした。クラッススはローマ最大の富豪であったが(ローマの歴史上でも一番の富豪といわれれている)、ポンペイウスやカエサルと同じように、軍事的な成功によって市民から尊敬されることを強く望んでいた。紀元前53年、クラッススは大規模な軍隊を率いてパルティアに向かったものの、カルラエの戦い(現代のトルコ)で敗れ、休戦交渉が決裂したのちに殺害された。

Julius Caesar
ユリウス・カエサル Georges Jansoone (CC BY-NC-SA)

クラッススがいなくなると、第一回三頭政治は瓦解し、ポンペイウスとカエサルは互いに宣戦を布告した。ポンペイウスは法的手段によるカエサルの排除を試みた。かき集めた罪状で裁判を起こすと、元老院に働きかけ、裁判を理由にカエサルのローマ帰国を命じさせた。このような告発に対し、従順にローマへ戻るようなことはせず、紀元前49年、カエサルは軍隊を率いてルビコン川を渡り、その先頭に立ってローマに侵入した。

カエサルは出廷を拒否し、ライバルであるポンペイウスの排除に力を集結した。ポンペイウスとカエサルは紀元前48年、ギリシアのファルサロスで激突し、数で劣るカエサルの軍勢がポンペイウスを打ち破った。ポンペイウスは保護を求めてエジプトに逃亡したが、到着直後に暗殺された。ファルサロスで圧倒的多数を誇るポンペイウス軍を撃破し、偉大な勝利を収めたカエサルのニュースは、瞬く間に広がった。ポンペイウスの友人や同盟者は、カエサルこそ神に愛された男と信じ、速やかに寝返った。

そして帝政へ

ユリウス・カエサルは、今やローマ最大の権力者となった。元老院に独裁者への就任を命じさせることで、事実上、共和制の時代を終わらせた。市民からは絶大な人気を誇り、カエサルが強力で安定した中央政府の樹立を目指した結果、首都ローマはさらなる繁栄を享受することになった。ところが紀元前44年、カエサルは元老院グループに暗殺された。カエサルの偉大な功績こそが、まさに暗殺の動機だった。

ブルートゥス、カッシウスを含む実行犯たちは、カエサルが権力を持ち過ぎた結果、元老院を廃止するかもしれないと恐れたようだ。カエサルの死を受け、彼の右腕であり従兄弟のマルクス・アントニウス(Mark Antony)は、カエサルの甥で後継者のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(Octavian)、そしてカエサルの友人であるマルクス・アエミリウス・レピドゥスと結託し、紀元前42年、フィリッピの戦いでブルートゥス、カッシウスの軍勢を撃退した。

Division of the Second Triumvirate
第二回三頭政治の勢力図 ColdEl (CC BY-SA)

オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスは第二回三頭政治を結成したが、第一回と同様に、彼らもまた等しく野心家だった。アントニウスとオクタウィアヌスは、レピドゥスによるヒスパニアとアフリカの統治を認めたが、これによってレピドゥスは首都ローマにおける権力争いから遠ざけられ、事実上無力化された。そしてオクタウィアヌスはローマ領の西方を、アントニウスは東方を治めることになった。

しかしアントニウスとエジプトの女王クレオパトラが結びついたことで、オクタウィアヌスの維持しようとしたバランスが崩れ、両者は戦争状態に突入した。紀元前31年、アントニウス・クレオパトラ連合軍はアクティウムの海戦で敗北し、のちに二人は自ら命を絶った。これによって、オクタウィアヌスはローマの唯一の権力者となった。紀元前27年、元老院から前例のない強大な権限を与えられると、オクタウィアヌスは「アウグストゥス」の名を自らに冠したが、これがすなわち、ローマ帝国初代皇帝の名前となった。歴史家の間では、この瞬間をもって共和政ローマの時代が終わり、ローマ帝国の歴史が始まるという見解で一致している。

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記事の引用

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Mark, J. J. (2026, June 01). 古代ローマ. (T. Torii, 翻訳者). World History Encyclopedia. https://www.worldhistory.org/trans/ja/1-68/

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Mark, Joshua J.. "古代ローマ." 翻訳者: Tetsuya Torii. World History Encyclopedia, June 01, 2026. https://www.worldhistory.org/trans/ja/1-68/.

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Mark, Joshua J.. "古代ローマ." 翻訳者: Tetsuya Torii. World History Encyclopedia, 01 Jun 2026, https://www.worldhistory.org/trans/ja/1-68/.

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